とりあえず、"SO WHAT?"

30代後半からエンジニア転職を目指すパート主婦が、転職活動や日々思った事を自由気ままに綴る雑記ブログ

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悩める長女の就学問題

ランドセル

わが家は普段、テレビをほとんど見ません。

わが家の見たいもの(ニーズ)と最近のテレビの趣向が全く合致しないので、テレビをつける時はChromecastで繋いでYouTubeかPrime Videoを見ています。

最近『成田悠輔』という人物が話題だというのをたまたま見たYouTubeで知りました。

彼には様々な肩書きがあるのですが、一応2児の母である私は、彼の教育者としての一面に興味を持ち、ここ数日は林修氏との対談番組を皮切りに彼の出演しているチャンネルを見まくっていました。

そして思ったのは、やっぱり教育って普通の子供(定型発達児)である事が前提なんだなという事でした。

 

わが家の長女は発達障害グレーな5歳児です。

長女は3歳になるまで「ママ」や「ワンワン」といった意味のある単語を一切発する事なく、なんなら喃語と言いますか、「あー」とか「うー」といった音すら発さない状態で、まぁ何を考えているのかさっぱりわからない小宇宙のようなおこちゃまでした。
(3歳で保育園に行き始めてから言葉が出るようになりましたが、同年代のお子さんに比べると言葉のやり取りはまだまだ遅れています)

当時発語の前段階で重要と言われている指差しもなかったので、(よもや発達障害?)と思ったりする一方で、逆さバイバイやクレーン現象、偏食や目が合わない、癇癪が酷いという事はなかったので、(まさか知的障害?)と思ったりして、親としてはそれはそれは憂鬱かつ悶々とした日々を過ごしていました。

そのきっかけとなったのは発達検査の登竜門である一歳半検診で、これを機に長女の発達に関して我々夫婦の悩める日々が始まったのですが、ぶっちゃけて言うとこの時から私は子育てが全く楽しくありません。
(なぜなら不安しかないから)

一歳の頃の長女

(↑一歳半の頃の長女。この頃はとにかく不安が大きく毎日が憂鬱だったので写真も少ないです)

一応長女が2歳になってすぐ地元では評判のクリニック(発達外来)を受診したのですが、医師は娘の診察室での様子と、遠城寺式という発達検査と、M-CHATという自閉症のスクリーニング検査をしただけで、「中等度知的障害を伴う自閉症」という診断を下しました。

ただこの時M-CHATの検査方法がその使い方を遵守したものではなかったと後にわかったので、我々夫婦はすぐにセカンドオピニオンを考えました。

しかし非常にもどかしい事に、地元には発達外来を標榜しているクリニックがほとんどありません。
(田舎ゆえのディスアドバンテージ)

それならいっそ東京の有名な医師に診てもらおうと思ったのですが、それも新型コロナウイルスの出現により立ち消え、現在に至ります。

 

とにかく言葉でのやり取りが難しい長女は、小さい頃、例えば駐車場で急に走り出すなどといった危険な行為を制止する際には、大きな声を出すとか怖い顔をするといった原始的な方法でないと伝わりませんでした。

「飛び出したら危ないよ」と静かに注意して、泣き出したら目線の位置を合わせて「どうして泣いてるの?何が嫌だった?」と気持ちを聞くなんていう超高等手段が使えないので致し方ないのですが、側から見たらただの子供を怒鳴りつける怖い親でしかないわけで。

おまけにテレビやネット、専門書にヒントや救いを求めても、教育者や小児科医は口を揃えて「怒る育児に意味はない」、「子供は褒めて育てましょう」と説き、挙句子供を怒鳴る事が脳の発達に悪影響を及ぼすという研究結果まで提示する始末。

世間もそんな彼らの主張を引きも切らず拾い上げるため、私は親としての自信を完全になくしてしまいました。
(我々はそういう事が知りたいんじゃなくて、じゃあそうしないでいいような具体的かつ実践的な方法が知りたいのですが)

そしていつしか私は、私達夫婦の存在が長女を苦しめているのではないか、長女を怒る両親や怒られる長女を見て次女の心にまで悪影響を及ぼすのではなかろうか、いっそ長女は親元を離れ、施設や里親の元で育った方が幸せなのではないだろうか等々、色んな事を考えるようになりました。

もちろんどんな子供であっても親という立場であれば大なり小なり悩みは出てくると思います。

しかしそれが発達障害もしくは発達障害グレーの子供と定型発達の子供とでは、悩みの種類や程度は雲泥の差だと思います。

(余談ですがもうすぐ3歳になる次女は発育・発達共に一度たりとも悩んだ事はなく、今のところなんの心配もしていません)

 

発達障害という言葉が世間に広がり、認知はされてきたものの、理解が追いついているかといえばそんな事はないと思います。

むしろちょっと騒がしい子供がいたら「あの子発達障害じゃない?」と簡単にラベリングされるようになったような気がしますし、そうなってからの偏見は未だに根強いと感じています。
(長女が2歳の時に市の発達相談に行った際も、相手は医師ではなく心理士であったにも関わらず、「2歳で発語がないというのはそういう事(発達障害)ですから」という前提で話が進んでいきました)

特別な配慮が必要な発達障害の子供が定型発達の子供と全く同じような人生を歩めるかと言ったら、それは難しいかもしれません。
(それを目指す事を周りが制止するかどうかは別として)

でも発達障害の子供が定型発達の子供より劣っているかと言われたら、一概に「イエス」とは言えないはずです。
(私の愛してやまないトム・クルーズも7歳の時に学習障害と診断されています)

だからまずは障害のある子供達にもチャンスをくれよ、壁をつくらず同じ舞台に立たせてくれよと思うのですが、それは贅沢な事なのでしょうか?

「学校では絶対に紙と鉛筆で板書をしなくてはならない。なぜならそれが普通だから」でなく、録音してもいいし、タブレットを使ってもいいなど、その子の特性に合わせた方法で学ばせてあげてよと思うのですが、それも贅沢な事なのでしょうか?

ちょっとそこの偉い人、お願いだから障害のある子供が将来社会の中で肩身の狭い思いをする事なく、自分の得意な事を存分に伸ばしてのびのびと生きていけるような環境や教育を整備してくれよと思うのですが、それさえも贅沢な事なのでしょうか?

 

なぜ急にこんな事を言い出したのかといいますと、先日再来年の就学に向けて長女の通っている療育施設が主催した就学相談会に参加したからです。
(講師は教育委員会の方でした)

普通学級か通級か支援学級か、はたまた小規模特認校か…。

大事な大事な娘の大事な大事な人生の選択場面で激しく悩みまくる私。

悩んだ挙句東大を出てマサチューセッツ工科大学で博士号を取ってイェール大学の助教授である、まるで漫画のキャラのような天才成田悠輔氏の言葉にヒントを得ようと思ったわけですが、さすが天才。

彼の見ている景色は随分と高いところにありました。

そして冒頭の感想を抱くに至ったのですが、最近ではランドセルを見るのも嫌なくらい悩みの深みが増していっています。

そもそも義務教育というのは、子供が「学校に行きたい」という希望を出したら保護者がその希望を叶える義務があるという事だとか。

なら長女が「学校に行きたい」と言わなければ、私はこの義務を負わなくてもいいんですかね?

悩みすぎてそんな事まで考えてしまう今日この頃です。

はあ(ため息)。

なんか心躍るような楽しい事ないかなぁ〜(涙)。